ゆぴ、17歳です。
この言葉をはじめて言ったときからどのくらいの年月が経ったのかわかりません。そのくらい、私は長い間17歳をやっているし、これからもやっていく所存です。
『若く見られたいからでしょ?』
というのが1番よく言われてきた言葉だと思います。歳を重ねる度に年齢が答えづらくなっていくのをごまかしているのだと。
違います。
完全否定はしないけど、たったそれだけの理由のために私は泣き喚きながら既に刺されてしまった誕生日ケーキの蝋燭をひっこ抜いて数合わせをしたりしないし、職場の先輩から『自分の年齢を認めることは素敵なことやで…』(まあそれが普通なんだろうけど)と諭されるのを申し訳ない気持ちで聞いたりしないし、初対面の人に自己紹介する度に痛々しい視線を向けられるのをじっと耐えたりしない。
ぶっちゃけ、このリアリストの多い世の中、しかも協調性を求め、出る杭を打ちまくる日本で『17歳』と高らかに宣言をするのはリスキーでしかないんです。
こんなことを言うのもアレだけど、正直マトモじゃないとすら思われているはずです。この発言たったひとつだけで、『変な人』レッテルもよく貼られます。
じゃあ、どうしてそんなリスクを抱えながらも17歳をやっているのか。
そもそも永遠の17歳は、声優の大御所・井上喜久子さんが、当時16歳だった新人声優・山本麻里安さんの、
『山本麻里安、16歳です!』
という自己紹介を真似し、山本麻里安さんが17歳になった折から
『井上喜久子、17歳です!』(オイオイ!)
とやり始めたのが私の知る限りは原点だと思います。
そして、喜久子さんが定めた17歳教には、実年齢が17歳と156ヶ月を越えないと入れない、などの厳密なルールがあったりもする。
でも、それと私の17歳は根本的に少し違って、
私はもっとずっと前、17歳になる前から、
『17歳になったら、17歳で時を止めよう』
と決めていました。
それは、私が13歳のとき、
声優の田村ゆかりさんに出会ったことから始まります。
どっぷり自分語りをしますが、最後に1番伝えたいことがあるので良かったら聞いていってください。【6000字】あるのでお時間のある時にどうぞ!(笑)
1. ゆかりんになりたいから『17歳』

中学1年生が終わった13歳の春、私は父親の仕事の都合でアメリカに引越すことになりました。
『アメリカ、いいなぁ!』
とたくさんの人に言われたし、今でも帰国子女であることを羨ましがられたりするけれど、私にとってのアメリカ生活は地獄でした。
ぶっちゃけ、異国の地でものびのびと生きていける人は人並みのコミュニケーション能力と異文化を受け入れる柔軟性を持ち合わせている人だけだと思います。
だって英語が喋れないのにすぐに外国人と友達になれる人っているじゃん。
そんな訳で、幼い頃から人との接触を避け、読書とお絵描きをライフワークとしてきたトップオブザ内向的チャイルドな私は転入した現地の学校でも、ほとんど言葉を発することなく、毎日を過ごしました。
唯一の楽しみは、日本の親友とのメール。覚えたてのタイピングで時差に気を使いながらのやり取りが、本当に幸せな時間でした。ささやかすぎて思い出しながら泣きそう。
そんな時、当時ローンチされたてのyoutubeを見つけ、大好きなアニソンを漁っている途中、たまたま声優の田村ゆかりさんに出会いました。
それは、『魔法少女りりかるなのはA’s』のエンディングテーマ、Spiritual GardenのPVでした。聴いたこともないような美しい歌声と、純白なドレスを纏い、月夜にブランコで揺られる天使のような麗しい姿…。私は一瞬で恋に落ちました。
当時の私はたまたまゆかりんが永遠の17歳を公言していることを知り、
『そっか、ゆかりんは17歳なんだ!』
…と何の疑いもなくそのまま受け入れました。
誰がなんと言おうとゆかりんは17歳にしか見えなかったし、別に本来の年齢を知ったとて、それがゆかりんを好きじゃなくなる要因にはなりえなかったので特に調べる気もありませんでした。
そして、小学生の頃に国語の授業の音読にハマり、声優という職業を志していた私は、何年も変わらずトップ声優として走り続けるゆかりんに憧れるようになり、
『17歳と言い続ければ、私もゆかりんみたいな声優になれるかもしれない』
とぼんやりと考えるようになったのです。
2. 日本に追いつけないから『17歳』

渡米から2年が経った中学3年生、15歳のとき、日本に一時帰国することになりました。
ヨッシャーー!!2年ぶりの日本じゃ!!と胸を躍らせつつ、だんだんと頻度が落ちていった日本の友達とのメールのやり取りに若干の不安を覚えつつ、まぁでも2年間のブランクなんて埋められるよね、と能天気に考えながら飛行機に乗りました。
でも、2年ぶりに足を踏み入れた中学校で私が目の当たりにしたのは、私の知らない世界でした。
大人の2年間はあっという間かもしれない。でも、子供にとっての2年間という時間は、途方もなく長かった。
ああ、ふつうの15歳が知っていることを、私は知らないし、ふつうの15歳が経験してきたことを、私はやったことがないんだ。それをまじまじと見せつけられました。
長かったスカートとダサい白ソックスが、膝上になっていること。
下っ端だった友達が部活で部長になって1年生を率いていること。
クラスメイトが、雲の上の存在だと思っていた生徒会長になっていること。
みんな、記号のような古文や漢文が読めること。
そして、自分の中で何度も何度も反芻してきた中学1年生の時の思い出が、誰にとっても重要でなく、とっくに忘れ去られていること。
あれ?私はタイムスリップしてきたのかな?
かつては確かに同じ時間を過ごしていた同級生たちが、とても大人びて見えました。物理的には同じ時間を過ごしていたはずなのに、確実に、時差が、生まれていました。
ずっと帰る場所は日本だと思い込んでいたけれど、私だけひとり、取り残されていたのです。
そんなとき、ふと思いました。
でも、『17歳で時を止めれば』許されるかもしれない。
今考えるとなかなかにぶっ飛んだ思考ですが、「追いつけない」ことを認めるためにはどうすれば良いか、焦った私が出した答えはこれでした。
17歳なら、追いつけなくても良いかもしれない。
17歳であり続ければ、そのうちに友達とは同い年じゃなくなっていくから、みんなよりも経験の浅い自分を認めてあげられる。
歳下だから、みんなよりも幼い自分を許してあげられる。
そんな免罪符として、私はますます17歳として生きる決意を強めていったのです。
3. 憧れを確かめられないから『17歳』

もともと私は少女漫画が好きだったのですが、何故か主人公には17歳が起用されることが多く、それをずっと疑問に思っていました。
漫画家さんサイドに立って分析してみると、高校1年生だと色々な出会いから描かないといけないし、高校3年生だと受験モードで恋愛をしている場合ではなさそう、という理由から高校2年生が話を組み立てるのにちょうど良いのかな、と思います。
でも、そんな少女漫画を延々と読み続けた結果、自分のなかでとある概念が生まれていることに気づきました。
きっと、「高校2年生」が人生で1番楽しいんだ!
それがいつしか思い込みになり、『高校2年生』は特別なものとなりました。
高校2年生、つまり17歳になったら、文化祭でみんなで遅くまで残って作業中にバケツに入ったペンキをこぼして喧嘩をしたり、ロミオとジュリエットの舞台中にドレスを踏んで滑って好きな人とうっかりキスをしちゃったり、体育館倉庫に2人っきりで閉じ込められて「しょうがないな、誰かが気付くまで待つか」ってなったり、修学旅行で先生の徘徊にドキドキしながら恋バナをしたり、林間学校の山奥で足を滑らせて崖から落ちて山小屋で一晩を明かしたり(気温が下がり服を脱いで背中合わせになって温めあうのもセット)、パピコをチューチューしながら河川敷を2ケツで走ったり、「校門のところで待ってる人かっこよくな〜い?」ってみんなが騒いでて窓からチラ見したら昨日合コンで出会ったアイツだったりするんだ!!!!!!!
ってな具合です。(重症)
それを周りに話すと「そんな高校生活は存在しねぇ」と言われますが、ここで問題なのが、果たしてそんな高校生活があるのかないのか、その事実を
私が永遠に確かめられないということです。
なんと切ないことでしょう。
確かに、実際に高校に行っていたとしても、勉強をしているだけだったかもしれません。それどころか、ひどい目にあって青春が1ミリも出来ていなかったかもしれません。
でも、それすらも確かめる術がないんです。だって日本の高校に行ったことがないし、これからも行けることがないから。
ここで、良いものを見つけたので勝手に引用しておきます。
最近Facebookを徘徊していたらたまたま辿り着いた、大学時代に付き合っていたリクヒノハラの私小説です。
私小説なので 私の渡米期間が17-21歳となっていたりと、内容は若干違いましたが、私が登場しており、17歳についての記述がありました。
彼女がよく口にしていたことには彼女には日本の青春の記憶がごっそり抜け落ちている、ということだった。
確かに日本と海外での思春期の過ごし方は違うように思う。どう違う、とは僕には語れないけれど、彼女は僕がごく当たり前に過ごしてきた高校生活の話をするとき、まるで御伽の国の話を聞く子どものような憧憬の眼差しを僕に向けるのだった。
ちなみに冒頭の写真も昔リクヒノハラに撮ってもらったもので、「eternal youth」というタイトルがついています。良いタイトルかよ。
それはさておき、私の憧れていた17歳というのは、アメリカのハイスクールミュージカル的なノリのものではなく、もっと繊細なもの、つまりそれは全て日本の高校に詰まっていると信じていました。
だから、誰かの高校生活の話にはどんなに些細なものでもうっとりと耳を傾けてしまうし、電車内で高校生を見かけると何となく目で追ってしまう。
それは結構重症な理由で、小さい子ってレストランや道で同い歳くらいの子供を見つけるとずっと気にしてたりすると思うんだけど、それと同じで、「同い年感覚で見てしまう」からなんですよね。(犯罪ではないと信じたい…)
だからつまるところ、輪廻転生して日本の高校に行かない限り、青春が本当に存在していることを自分自身で確かめない限り、私は17歳のままなんです。
これは意図的というよりも自然的な現象ですね。
4. 言い訳をしたくないから『17歳』

『ゆきはいいね、若いからなんでもできて。お母さんはもう年寄りだから』
これが、うちのお母さんの口癖でした。思えば、渡米した時も
『お母さんはもう年寄りだから、英語なんて覚えられないわ〜』
と言って、勉強しているのを見たことがありません。
そんな言葉を繰り返し繰り返し聞いていたら、
あれ、私も大人になったら、年齢を言い訳にするようになっちゃうのだろうか?
と思うようになりました。
これは高校生当時ですら周りに充満していた悪しき風潮で、もう◯◯歳だから夢を諦めなきゃいけないだとか、もう◯◯歳だからフリフリのスカートが履けないだとか、もう◯◯歳だから新しいことに挑戦できないだとか、だからなんだよ、と思いました。
年齢を言い訳にしているだけじゃん!!
人は、その年齢通りには成長できないと言います。
そりゃそうだ、その人にとっての年齢は、その人が始めて迎える年齢なのだから、その年齢通りに振る舞える訳がない。だとすると、その年齢である自分がどう振る舞うべきかを決めるのは自分じゃないか?
年齢を言い訳にするような大人になりたくない。
年齢のせいで自分の可能性を狭めるような大人にはなりたくない。
でも、17歳をずっと公言し続ければ、私はきっと何にも臆することなく挑戦していけるし、始めるのに遅いことなんてない、と堂々と生きていける。
最近だとカラテカの矢部さんが同じことをやっていて、「そう、それだよ!」と思いました。
年齢で諦めるのが1番いけないこと。物理的な年齢に囚われちゃダメ!
「僕の中では、38歳だけど18歳だと思うようにしていました。だからいま、20歳(ハタチ)なんです。」
手塚治虫賞贈呈式の受賞スピーチ全文(Book Bang) – Yahoo!ニュース https://t.co/luWe9eSwhh @YahooNewsTopics
— いしかわゆき(17)@声ライター (@milkprincess17) 2018年6月22日
ゆかりんみたいな声優になるため、友達に追いつけない自分を認めるため、青春への憧れ、年齢を言い訳にしないため…そんな様々な願いを込めて、わたしは17歳になったのです。
知ろうともしないでディスる人になってはいけない
さて、17歳と名乗り始めてから、思いもよらぬ副産物が3つ手に入りました。
1つめは、自分の周りに自然と優しい世界ができること。
何故なら、この「17歳」という一風変わった価値観を受け入れてくれる人は私に興味を持ってくれていたり、偏見を持たなかったり、優しい人だったりするからです。
毎年誕生日になると、友達からは
「17歳おめでとう!」「ハッピーセブンティーン!」
というメッセージが届きますし、私が落ち込んでうっかり実年齢を言いかけると
「何言ってるの、17歳でしょ!!」
と逆に訂正してもらえたりします。あったかい世界…。
2つめは、なんか知らんがマジで老けないということ。
これは何だろう、言霊のような自己暗示のような効果なのかもしれませんが、顔は年々若くなっていってるし、身体の衰えも感じず元気だし、タニタの体重計に乗ると「体内年齢:18歳」と出ます。
(おい、18歳じゃん!って思うじゃん、しかしこれはタニタの仕様で、実年齢を17歳以下で設定している人は体内年齢は表示されないそう。だから17歳以下はない。つまり18歳が最小と言うワケですよみなさん!)
永遠の17歳はリアルなアンチエイジング法でもあったようです。
3つめは、年齢を聞かれて「17歳です」と答えた時の相手の反応で、その人がどんな人間なのかが何となくわかるということです。
大体下記の⑤パターンに分かれます。
①「そうなんだ〜」と何も言わずに受け入れてくれる人
②「なんで?」と聞いてくれる人
③「うん…?」とちょっと引いちゃう人
④「えっ!私も永遠の18歳だよ!」と同調してくれる人
⑤「痛くない?無理だわ」といきなりディスってくる人
①の「受け入れてくれる人」は、優しい人、偏見のない人、私が17歳であろうがなかろうがどうでも良い、と思っている人、あるいは何か面倒くさそうだからとりあえず受け入れておこう!という人だと思います(笑)。
②の「聞いてくれる人」は、単純に疑問に思った人、私に興味を持ってくれた人、興味はないけどとりあえず聞いてみた、という人だと思います。
③の「ドン引きする人」は、おそらく常識的で新しい価値観に拒絶反応を示す人、こいつ意味わかんねぇ〜理解不能〜と思っている人、何言ってんだどう見てもBBAやん、と思っている人だと思います。
④は仲間です。
ここまでは良い。最近は多様性を認める社会になったからか、大体①と②の人が多くてハッピーです。昔は③が多かったですね。でも③の気持ちもとてもわかる。いきなり言われても意味わからないしな。わかる。④はたま〜にいる。
問題は、⑤のいきなりディスってくる人です。
何年間も17歳をやっている私が、そもそもどうして今更こんな記事を書いたかというと、最近久々に初対面で会った人にディスられてこう思ったからです。
「それ」を批判して傷つけて良いのは、「それ」をちゃんと知ろうとした人だけだと。
例えば、1ページも読んでない本や、1ミリも観ていない映画に対して、タイトルだけ見て「面白くなさそう」と思うのは勝手だけど、作者や監督に「面白くなさそう」と言葉を投げて傷つけるのは何だか違くないか?と思うわけです。
一回ちゃんと知ってから言えよ、と。
知ったうえで、ディスるのが正しいディスりでしょ?
そんな訳で、理由も聞かずに最初からバシーン!とドアを閉ざされて憤慨したあと、そういえば17歳である理由を口頭以外でアウトプットしたことがなかったなぁ、と思ってこの記事を書くに至りました。
だからもう、私はディスられても大丈夫な状態になった訳です。
だって、私のことを知ったうえでディスるのならそれはもう、その人と考え方が合わないのだから仕方ないな、と諦めがつきます。
ただ、表面上には「変」に見えても、おそらく人の行動や言動には何かしらの理由や信念がある。
それをちゃんとわかっているだけでも、全然違うと思うし、例え受け入れられなかったとしても、世界は広がっていくんじゃないか、と思うのです。
そして、知ろうと思ってくれただけでも、それはその人にとって救いになるはずだから。
以上、ゆぴ、17歳でした。

Photo by リクヒノハラ(@rikuhinohara)