こんにちは!永遠の17歳、ゆぴ(@milkprincess17)です。
遊びのように見えても、何気ないことだとしても、すべての行為には何かしらの意味合いがある。
当たり前のことですが、本日受けた「写真論」の講義ではそれを改めて実感しました。
[TOC]
写真を撮るという行為について
シャッターを押すことは、「過去から現在、そして未来へとつらなる持続を一瞬にして切断し固定する」行為であり、「一瞬のうちに現在を過去に変質させ、これを単に〈あった〉のみならず、すでに〈おわった〉一個の実在性へと変容させる」行為である。
西村清和「写真行為のエートス」(『文化人類学研究』2005.12)より
私が写真を撮る理由。それは、単純に思い出として保存しておくのではなく、蓄積しておくことへの安心感=写真を通していつでも過去に戻れるための箱舟のような役割を期待しているんじゃないか、と。
写真家とは、「絶えず今の時間と過去の時間を二重に持っている人」と定義されているそうです。
そんな中、自らの望みで時間を止めようとした私はその狭間で中立的な存在であろうとしてカメラを手に取ったとも言えるかもしれない。
写真を撮り、ブログに日付と状況描写と共に記録していく行為を始めたのは高校2年生頃、つまり実際に17歳だった頃ですが、かつては自分の生き様を未来の自分への財産として残すために始めたブログが、17歳であり続けるための記憶装置、タイムマシンのようなツールになって来ている。
たくさんの物、景色、人の写真を撮って来て思うのは、自分が写り込むというのは大して重要ではなくて、自分が撮ったものを残すという行為が、そのまま自分がその場に立っていたという事実を示すという点が重要であるということ。
ここでの矛盾点は、17歳で時間を止めたと主張しながらも、時間を写真によって区切ることで、確かに自分は自然な時の流れに沿って生きているということも明確に示してしまっていること。そのうえで、自分の内部の時間を止めたまま、本来は存在しないはずの時間を写真を通じて残し、そして戻るということ。
どうして矛盾が生まれてしまったのか。それは私の特殊な17歳というアイデンティティが生まれた背景にあります。
時を止めながら写真を撮ること
私が時を止めた理由は、『同年代に追いつけない自分』という葛藤から生まれてきています。免罪符として17歳という年齢を掲げているわけです。
一方、17歳と主張しながらも、『同年代』を強く意識するあまり、追いつけなくとも置いていかれたくないという思いがある。だから表面上は『同年代』と同じ時間を生き、同じ体験を共有するという『理想の自分』を演じているわけです。
その結果として、写真を撮る行為に対する意味合いが、『同年代に追いついている』と錯覚させてくれるツール、そして今と過去の狭間に存在させてくれるもの、という2つのものになってしまったわけです。
いつでも過去に戻れるということは、今の時間からの逃避行為。即ち時の流れに逆らう17歳としての在り方そのものなんだと思っています。例え遡る過去が、17歳以降のものだとしても、内部の時は止まっているから、自己解釈にしてみれば、それはすべて17歳にとっての過去の思い出になる。
物理的問題を潜り抜けて、ぺらぺらな二次元に縋るのが17歳でいられる最も確実な方法です。
結局、やはり写真を撮るという行為は、過去と今の間に生きることで、物理的な時間の流れを曖昧にするという目的に過ぎないのかもしれない。
そんなことを考えさせられた講義でした。
おしまい